●●● 第6章 フラワースクール創成期
82回 [宗石さんとの出会い]
生協高槻店に
専門店として、社長の花屋が入っていました。
花屋の店頭には
「フラワースクール、生徒募集」の張り紙がされていました。
それを見て、入会してくれる生徒さん達がいました。
その中の1人が「宗石さん」です。
地震の年の春、
宗石さんは、お友達3人と入会して来てくれました。
「宗石さん」「姫野さん」「清友さん」という
なんとも、由緒正しいお家柄がイメージされるお名前の方々と一緒に。
清友さんは、多分1年くらいで辞められたんじゃなかったかな‥
宗石さんと姫野さんは長く通ってくれました。
3人の中で、一番上手だったのが姫野さんです。
感も良く、呑み込みも早かったですね。
途中で妊娠されたんですけど、
お休みされたのは、2ヶ月程度で
すぐに復帰された頑張りやさんでもあります。
生まれた赤ちゃんをベビーカーに乗せて、
レッスンに見えていました。
高槻店のレッスン場所は、生協の2階にあり、
かなり狭くて急な階段を登らなければならなかったのですが、
片手に赤ちゃん、片手にベビーカーを抱えて
上がり降りする姫野さんは、
とっても「逞しく、カッコ良く」見えましたね。
その赤ちゃんの名前が「ミサちゃん」
とってもとっても可愛くって、
「子役オーディション」に連れてったらいいのに!!
って声が、皆から挙がっていたほどでした。
皆の「アイドル的」存在でしたね~。。。
生協の生徒さんの特徴として、
「子供づれ」がありました。
高槻にしても、摂津・西淀川にしても
そうでした。
あれっ‥
でも、箕面だけは
「子供連れ」って、無かったような‥
地域性なのかな~
誰かが、子供を連れて来られた事は
箕面だけは、無かったですね~。。。
宗石さんも
子供さんはいらっしゃいましたが、
教室には、あまり連れて来られなかった様に記憶しています。
私にとっては、
最初の頃の記憶は薄い宗石さんが
この後、
資格を取得し、遊華のアシスタントを務めてくれるようになり
又、自分の教室をスタートし、
私に大きな事を「教授」してくれる事になろうとは‥
ましてや、
14年にも渡り、
遊華に通ってくれる事になろうとは。。。
人間の繋がりって、分からないものですね~。。。
<つづく>
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実は「遊華」と名前を決定したのには、
宗石さんの一言が大きいのです。
数年後、生協さんが閉鎖されていき、
高槻教室も場所を変えなければいけなくなります。
その時、「教室名」が必要になりました。
(貸し会議室の前に教室名を書いた看板を出しておかなければならなかった事と、お部屋を借りる時に、名前が必要だった為です。)
資材を購入したり、お花を購入する時の
名義として、
既に「アフロディーテ」という名前を私はもっていました。
でもね~
地方の会議室での花教室の名前としては
どうも、「たいそう」な気がして‥
その時の生徒さんに
こう、聞いたのでした。
教室の名前
「アフロディーテ」と
「花クラブ遊華」と、どっちがいい? って。。。
その時居た、他の生徒さんは何も言わなかったと記憶しています。
宗石さんだけが、
「遊華がいいです。」って、言ってくれたのでした。
だから、「花クラブ遊華」になりました。
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